選ぶ体温はたった一つ
2周年企画
 都から少し離れた所にある、桔梗苑。小さく質素ながらも上品な庵、それを囲む庭は、上質な隠れ家の様だ。桔梗苑という名の通り、この時期、沢山の桔梗に囲まれた華やかな時間を過ごす事が出来る。
 此処の所有者であり、恋人との逢引に使用している泰幸は、切なげに目を細めて軽く溜息をついた。
 彼の柔らかな茶色に光る髪と瞳は、祖先に異人がいたからだとされている。凛とした顔立ちは甘く、歯が浮くような台詞を違和感無く口にしては女性達を惑わせた。泰幸が内裏へ行く度に女房達はこぞって御簾に押し掛け、彼がちらりと顔を向ければ、視線の先は自分だと主張しあう。
 女房達の熱い眼差しを一身に受けている事に変わりはないが、そんな泰幸の浮名が途絶えて二年が過ぎようとしていた。
 晴れた空の下、冷を含んだ風が咲き誇る花々の隙間をすり抜け、秋色に染まった木葉を揺らす。それは白帝の足音の様で、泰幸は姿を探す様に空を見上げた。穏やかに流れる雲を眺め、扇を開く。少ししてパチリと閉じる。何の気無しにそれを繰り返し、時々溜息をつく。
 愛しい待ち人はまだ来ない。


 すっかり遅くなった暗い道を、一台の牛車が急いでいた。膨らんだ三日月が斜めに傾ぎ、明かりの無い夜道を照らしている。所々に小石が散らばる土の道をガタゴトと走り続ける牛車の他に、人の気配は無い。夜盗一味は先日捕えられたばかりだが、治安が良いとは言い切れないのだ。都を外れ、田畑を少し過ぎた所で牛車が止まった。主がこの道を行く時は、この辺りで車を止める事になっている。
「光彰様。」
 御者が声を掛けると同時に、御簾を片手で持ち上げて、中から一人の青年が降りてきた。すらりとした長身を衣冠(いかん)に包み、腰に太刀を下げている。精悍な顔立ちに掛かる長めの前髪が風に揺れ、少し無骨な指がそれを掻き上げた。御者が光彰を笑顔で見上げる。
「お気を付けて行ってらっしゃいませ。」
「ああ。お前も気を付けて帰りなさい。」
 光彰が早口でそう気遣うと、御者は一礼して牛車に乗り込んだ。普段はそれを見送る余裕がある光彰だが、今日は急いで踵を返す。
 仕事は何時も通りに終わったのだが、思い掛けない事に時間を取られてしまった。約束の時間はとうに過ぎている。流石にもう帰ってしまったか、或いは中に入れてくれないかもしれないと思いながら、光彰はプライド高い約束相手の顔を思い浮かべた。
 普段の光彰の笑顔は人懐こく、黙していれば武人らしく整った顔が少年の様にさえ見える。剣や弓が強く、誰に対しても優しい彼は男女問わず好かれていた。女性達は、彼の普段の顔と、爽やかさを併せ持ったその笑顔とのギャップに頬を染める。だがそんな彼の心の奥に存在するのは、恋仲になって二年目の筒井筒だけだった。
 ひた走る道の先、闇に小さく灯る明かりが見え、光彰は足を速めた。

 弾む息を静めながら、光彰は寝所に向かった。月明かりにそっと揺れる桔梗の美しさも、今は目に入らない。以前一度あったように、わざわざ門に出迎えた泰幸が笑顔で「帰りなさい」と言って中々許してくれない、という事は無かったが、人払いをした上に姿が見えないとなると、治安の面から別の意味で不安になる。怒って帰ってしまったと分かる方がまだましだった。
 彼は門に、篝火を焚いてくれていた。遅くなっても来ると信じてくれたからだろう。待ち合わせてここまで遅れた事が無いから、酷く心配を掛けてしまったに違いないと、申し訳なさに苦しくなる。
 廊下を曲がると、寝所の前に泰幸の姿があった。欄干に肩を寄せ、外を向いたまま動かない。目線だけでちらりと光彰を確認すると、また庭先の桔梗に視線を戻してしまった。その瞳に強い憂いが見える。
「泰幸。」
「……………。」
 まだ息が静まらない光彰が急いで近付くと、泰幸は持っていた扇を己の横顔を隠す様に開いた。
 待ち合わせはまだ日も高い時間の筈だった。日が沈んだ今は何刻だろう。まさかこんなに遅いとは思わず、何かあったのではないかと心配で堪らなかったのだ。無事な姿を見た泰幸の胸には、沸々と怒りが湧いてきていた。
「ごめん、泰幸。」
「……………。」
 返事が無いというのは、どうにもやりにくい。しかしこんな時、不用意に触れると余計に機嫌を損ねる。言い訳は嫌うが、理由を言わないのも嫌がる。泰幸への接し方を心得ている光彰は、座り直して姿勢を正し、再び口を開いた。
「勤めを終えて此処に来る途中、女房が一人倒れていたんだ。少し介抱したら直ぐに目覚めたんだが、近衛中将殿の所の女房だと言うから俺が直接送った。散々待たせて心配まで掛けておきながら、遣い一人寄越せなくて、本当にすまなかった。」
 膝に手を置き、光彰は頭を下げる。それを気配で察し、泰幸は僅かに扇を下げて目を覗かせ、光彰を見た。下を向く凛々しい顔の半分以上は前髪に隠れているが、真剣な気持ちは伝わっている。二人で会う時は身分も役職も関係無いとは言え、一人前の男が頭を下げているのだ。その気持ちをくめない泰幸ではない。近衛中将は光彰の上司であり、真面目で腕もたつ光彰に目を掛けている。身分が物を言う社会だ。下手な対応が出来無い相手に強引に引き止められたのだろう事は容易に想像がついた。真剣な姿に気持ちは和らぐが、それでも全ての怒りは収まらない。
 どんなに心配したか、どんな不安を感じたのか。息を切らせて駆け付けてくれた事に、どれだけ安心したか。それを決して言わない泰幸は、今だからこそ湧き上がる怒りだけを静かにぶつけた。
「……お前、私を軽んじているだろう。」
「それはない。」
 頭を上げないまま、光彰が即答する。
「私が許すとでも思っている?」
「この通りだ。」
 切実な声に、泰幸の口角が僅かに上がった。パチリと扇を閉じ、先端を光彰の頬に添える。その力加減に促される様に、低姿勢のまま顔を上げた光彰の顎下に滑らせ、あでやかな程に意地悪な笑みで見下ろした。
「今も私を求めてくれる姫は星の数程いる。もし光彰に愛想を尽かしていたら、お前はどうするつもりだったのかな。」
 光彰に告白して以来、泰幸は女性の元へ通わなくなった。今も以前と変わらない人気があり、時々噂もたつが、それは嫉妬した男達の嫌がらせである事を光彰は知っている。自分が認識しているよりも深い想いを泰幸が持ってくれている事にも気付いていた。
「もしそうなっていたら、今度は俺が泰幸を捕まえるさ。」
 プライドの高い泰幸が内心必死に、恋心をきちんと持っていなかった自分を情熱的に求めてきたように。今度は自分が、泰幸の心を求めよう。そして彼がそれを拒まないうちに、捕まえる。
「捕まえられるとでも?……大した自信だ。」
「泰幸に本気で愛されて、自分に自信を持たない者がいるのか? それでも俺は、泰幸を手にする為ならなりふり構わなくなりそうだがな。」
 最後は困ったような口調で、だが挑むように笑う光彰の瞳は真剣だ。それを見た泰幸は、意地悪な笑みのまま、満足気に瞳を細めた。自分は愛されているから何でも許されるのだと、只驕る者に用は無い。こちらがどんなに愛しても、その事を自信と誇りに出来無い者には興味が無い。そのどちらにもならず、同等かそれ以上の想いを示そうとする光彰の反応は、泰幸が好む所の一つだ。そして何かに挑む時の、不敵な笑みも。
「人の心は、月の様に変わり易い。その誠実を、どう信じたものかな……。」
「……太陽が幾度姿を隠し、月が幾度形を変えようと、この命続く限り、想いが絶たれる事は無い。形には出来無いが、泰幸が誓えと言うものにこれを誓おう。全てお前が望むままに。」
「……では、私が何を求めているかを当てて貰おう。」
 どうやら後少しで機嫌を直してくれそうだ。光彰は小さく笑い、扇を持つしなやかな手を取った。その手首の内側にくちづけ、膝を立てて泰幸に近付く。守る様に覆い被さり、熱い想いのままに泰幸を見下ろした。試すように悪戯っぽく見つめてくる茶色の瞳とぶつかる。
「それなら言葉は要らないな。」
 頬に手を添え、薄く開いて誘う唇に自分のそれを押し当てた。深く、優しく、想いを込めて。誓いは、愛しい泰幸自身に。

 きっとまた何時ものように、呆れる程愛を口にするのだろう。だが先ずは、抱き締めあって互いをもっと近くに。心底求めるぬくもりは、たった一つしかないのだから。










『特別な君へ5の想い』 配布元≫immorality
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