自分を見つめる、あまりにも優しい眼差し
2周年企画
 手を繋ぐ事。食後に、部屋でまったりする事。時々、同じ布団で眠る事。
 色々な事に慣れてきたつもりだった。初めての、親友と呼ぶのであろう朝希との生活を大切にしたい気持ちは、強くなっていくばかりだ。それでもまだ出来ない事は沢山ある。自分は甘えていないだろうか。急がなくて良いと言ってくれる朝希の優しさに。彼は何処かで息苦しくなってはいないだろうか。何もかもが不器用な自分との生活が。
 とても気になってはいるのだが、聞くのを躊躇ったままでいる。
 朝希の家には通いの家政婦がいる為、料理も掃除もあまりしなくなった。何時も気遣われてばかりいて、朝希に対して出来る事が殆ど無い。同居人として、それで良いのだろうか。
 赤みを帯びた空の下、そんな事をぼんやりと考えながら、貴夜は山にある泉の石に座っていた。片脚を立てて抱え、その膝頭に黒髪を押し付けるように俯いて水面を見ている。薄く張った氷を爪先で割ると、ぱきりと小さな音がし、破片が太陽の光を反射させながら透き通った湖底に沈んでいった。砂金混じりの泉の砂も、周囲に生えた草花も、体を休めるのに丁度良い岩も、全てが貴夜のお気に入りだ。
 だが今は、何かがしっくりとこない。ここ数日、何をしてもずっとそうなのだ。この景色を見ても、少し満たされたのは一瞬で、やはり何時もと何かが違う。だが原因が分からず、貴夜は苛立ってきていた。
 こんな事は初めてだった。一体何だというのだろう。もし朝希がいたら、この気持ちが何なのか教えてくれただろうか。
 そう思った貴夜は、また朝希に甘えようとしている自分に、僅かに眉をひそめた。自分の気持ちが、何故自分で掴めないのか。
 ふと近付く気配に気付き、貴夜は泉に続く獣道の先を見た。急ぐ様子もなく、けれど真っ直ぐに此処に向かってくる、慣れ親しんだ気配。
 急用が出来たから、と都に行ってから数日。漸く帰ってきた朝希に、貴夜は僅かに目元を和らげ、岩から飛び降りた。獣道は、泉を挟んで反対側にある。パキ、と小さな音をたてて薄氷が割れるが、貴夜は軽やかにその上を駆け抜け、そのままの勢いで待ち続けた気配に向かって行く。大木を曲がって直線に伸びた道に、その姿は直ぐに見付かった。
 オレンジの木漏れ日に煌めく長い銀髪が、冷たい風に揺れている。朝希が軽く手を振った。
「貴夜!」
 甘く整った顔が嬉しそうに名を呼ぶ。その声に、その笑顔に、立ち止まった貴夜は大きく息をついて相手を待った。
 あと五歩。
 あと四歩。
 待ちきれず、貴夜は大きく足を踏み出して朝希に飛び付いた。一瞬驚いた顔をした朝希が、笑って貴夜を抱き留める。
「ただいま、貴夜。」
 貴夜は首元にぎゅっとしがみつき、こくりと頷いた。
「・・・・・・お帰り、朝希。」
「何かあったのか?」
「何も……。」
「そうか、なら良かったよ。」
 低くて艶のある、穏やかな声音。馴染んだ香り。優しい腕。朝希が傍に居る事を実感して、貴夜は体の力を抜いた。少し体を離すと何時もの様に頭を撫でられ、柔らかな手つきと表情に無意識に口元が緩む。
「やっぱり山の方が冷えるな。泉はもう、氷が張ってるのか?」
「少し。・・・・・・行く、か?」
「ああ、行こうか。」
 貴夜が泉を気に入っている事は、当然朝希も知っている。誰も知らないあの泉は、朝希の好きな場所でもあった。それに折角貴夜が勇気を出して誘ってきたのだ。行かない筈が無い。朝希は貴夜の手を取り、ゆっくりと歩き出した。
 朝希が都に何をしに行ったのか、貴夜は知らない。何事も、朝希が言わない事は聞かない事にしていた。初めは関係無いと思っていたからだが、付き合いが深くなった今は、聞くのは何か良くない事の様に思えていた。そんな時は朝希を少しだけ遠くに感じるが、触れるぬくもりは、何時も確かにあたたかい。
 真っ赤な空を映すように薄氷の下の水が宝石の様な光を放っている。等間隔で氷が小さく割れ、奥の岩と獣道とを繋いでいた。それが貴夜の駆けた跡だと知っている朝希は、懐かれている喜びに笑みを浮かべた。
 陶器の様に白い肌、闇そのものであるかの様に艶めく黒髪と瞳。目を細めて泉を見る顔は、一見分かりにくいが満足気だ。人ならざる者の血を引く貴夜は、濃く暗い色を持つ者を忌み嫌う人々と拒絶し合いながらも、決して進んで人を傷付けはしない。心開いた相手には、不器用だが一生懸命に擦り寄ってくるこの可愛さを、何人の人が知るだろう。
「綺麗だな。」
 景色だけでなく、貴夜も。そう続く思いは、言葉にはしない。照れて何も言ってくれなくなるだろう。誰も知らなくて良いのだ、貴夜の可愛さも、自分のそんな言葉も。
 頬笑んで端的にそう言うと、貴夜は前を見つめたまま少し不思議そうに答えた。
「ああ。・・・・・・。」
「どうした?」
 何か腑に落ちない様子に尋ねてみると、貴夜は僅かに眉を顰めた。
「いや・・・・・・さっき迄は少し・・・・・・・・・。確かに綺麗なんだが。何かが、違っていた。今の方が・・・・・・・・・。」
 要領を得ない返事だが、分からない事は言い様が無い。暫し言葉に詰まった後、貴夜は何でもないと言おうとして朝希に顔を向け、そのまま見つめた。分からなかった何かが、何故か分かるような気がしたのだ。
 戸惑いを帯びた瞳に、朝希はふっと笑みを浮かべた。
「都で過ごしている間、綺麗なものを幾つか見たよ。だけど少し、物足りなかった。……何故だか分かるか?」
 少し考えた貴夜が首を横に振る。だがその答えはきっと自分と同じものだという予感がして、紫苑の瞳を見つめた。
「隣に貴夜が居なかったから。こうして手を繋いで、同じ景色を見れなかったからだ。」
 はっとしたように貴夜が瞬きをした。朝希が数日家を空けると言っても、特には何も思わなかった。毎日共に過ごす事が当たり前になっていたから、実感が湧かなかったのかもしれない。だがとにかく、こんな自分は想像もしていなかった。
 朝の目覚め、食事の時間、夜の眠り、大好きな筈の泉に来ても、何かがしっくりこなかった。何処かが暗鬱としていた。それが物足りなさだった事に、漸く気付く。そして足りないものは朝希だったのだと。
 一人で居る事が当たり前だった筈なのに、毎日二人で居る事が当たり前になってしまっていた。朝希の居ない日々は、小さな非日常の様だった。だからつい色々と深く考えて、そう、今思えば不安までもが煽られていたのだ。
「俺は・・・・・・今迄誰と居ても、こんな風には・・・・・・・・・。」
 気付かされた事実に動揺し、貴夜は顔を伏せた。極僅かだが、貴夜にも親しいと言える者がいる。だがこんな風になってしまった事はなかった。朝希との友情は、こんなにも強いものなのか。それは一体、自分をどう変えてしまうのだろう。
「貴夜。」
 甘い声で名を呼ばれる。上目に見ながら少し顔を上げると、何時もにも増して優しい笑みがそこにあった。その瞳はどんな時も、貴夜の心を甘く溶かしていく。そして必ず、貴夜の奥底に小さく甘美な熱を与えるのだ。
「俺も、ここまで思ったのは貴夜が初めてだよ。」
 絡めていた朝希の指先が、少し冷たい白い手の甲をトントンと叩く。貴夜が好きな、朝希の動作の一つ。
『大丈夫』
 そう伝えてくる指先に、自然と肩から力が抜けていく。色々な感情に戸惑うばかりだが、朝希によって引き出されるものを、どうして恐れる必要があるだろう。
「・・・・・・俺、も・・・・・・朝希。隣に、居て欲しかった。」
 繋いでいない方の手が、僅かにはにかんだ貴夜の頬に触れた。珍しく赤く染まった頬は、夕日の所為だけではないようだ。引き寄せられた腕の中、貴夜は穏やかな気持ちで、朝希の掌に頬を擦り寄せた。

 帰るまで、手を繋いで。一緒に食事をして、ゆっくり過ごして。今夜は一緒に眠ろう。明日の朝は一番に、その姿が瞳に映るように。










『特別な君へ5の想い』 配布元≫immorality
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