日溜まりのクロッカス
九龍妖魔學園紀 取手×主
 最近遠距離恋愛の歌が流行っているらしく、よく耳にするようになった。共感する部分に、少しだけ胸が痛む。会えなくても僕ははっちゃんが大好きで、お互いにとって最後の人になりたいと願っているけれど。何もかもを捨てて、君だけを求められない僕は薄情なのかもしれないと思った。ある時電話でそう言ったら、ピアニストは僕の天職になるから捨てられる筈が無いし、それでいいんだと、はっちゃんは笑った。自分が宝探しを生き甲斐にする様に僕はピアノを生き甲斐にして、そのうえで一緒に居ればいいだけだと。
 お互いを尊重するのは時に難しくて、弱くなってしまう時もあるけれど……でも、はっちゃんといない未来なんて想像も出来無い。だから一つ一つ乗り越えて、君に近付きたい。

「私、取手君の事、本当に応援してるのよ。……私は、待てなかったから。」
 先輩が長い髪をさらりと後ろに流し、ティーカップに口を付けた。少し伏せた目が寂し気に見える。数ヶ月前に知り合った先輩とは、学校帰りに時々こうしてお茶をする。初めて声を掛けられた時は名前も知らなかったけれど、学内では有名な人らしくて、男子生徒に羨ましがられた。そんな彼等は決まって彼女を、何人もの人を虜にしてきた恋愛経験豊富なお姉様だと言うけれど、僕は違う気がしていた。彼女自身はあまり恋愛の話をしないし、時々漏れる経験談からは、双樹さんのような一途さを感じる。その所為か、僕は多忙な恋人がいる事だけは打ち明けていた。職種も性別も明かせないけれど。
「取手君だから言うけど……最後に付き合った人が、立場上どうしても仕事に追われる人でね。一ヶ月に一度会えればいい方だったの。それでも電話やメールはくれたし、たまにでも会える事が嬉しくて、ずっと付き合ってきたわ……。」
 静かにティーカップを置いて、先輩は頬杖をついた。
「でも、会いたい時に会えないのは、やっぱり辛いわね。平気なつもりでも、やっぱり何処かで凄く我慢していて……耐える事が出来なくなって。私から、別れを切り出しちゃったわ。五年も耐えたのに、一日で終わりになるなんて、呆気無いものね。」
 そう言って悲しげに小さく笑う先輩に、僕は胸が痛くなった。やっぱり先輩は一途な人で、きっとまだその人を想って……耐えられなかった自分を責めたりしてるんだろう。僕だったらそうしてしまう。
「先輩は……その人の事、過去に出来ますか?」
「……………。彼、言ったのよ。仕事にケリを付けて、私を迎えに来るって。だけどそんな自分を、もう待たなくていいって。勝手だけど、その時……突き放された様な気がしたわ。待つ事に疲れて別れを言ったのは私の方なのに、拒絶された様な気がしたの。」
 それは僕もよく解る。もしはっちゃんに待たなくていいなんて言われたら、やっぱり辛い。
「数日後に登校して、一人で外にいたら、たまたまピアノの音が聞こえたの。不思議だったわ。聴いていると、彼の事ばかり浮かんで……辛かった筈なのに、忙しい中でくれた時間や言葉が愛しくてたまらなくなったの。」
 僕は初めて先輩に会った日を思い出した。暗くなるまで練習していたあの日、帰ろうと部屋を出た僕に話し掛けてきた、真っ赤な目をした先輩。日を変えて何度か話した頃には、僕が誰かを待っている事に気付いていて、そっと励ましてくれた。だから僕は恋人の存在を打ち明けたのだけど……あれは、先輩が言われたかった言葉だったのかもしれない。
「待つ事でしか、同じ様に会いたいと思ってくれる彼に応えられないと思っていたのに。それでも挫けた自分ごと、忘れたかったの。貴方の音を聴く迄は……。今では後悔してるわ、感情のままに行動した自分を。……信じているの、あの日の彼の言葉。まだ少し……怖いけど。仕方無いわね、過去には出来無いって、貴方の音で気付いたんだもの。」
 待ち続ける日々が、また耐えられなくなるかもしれない事。彼の言葉にあてが無いから、不安に揺れてしまう事。そんな怖さは、僕にも解る気がした。
「怖くても、本音では信じているなら……もう同じ後悔はしないと思うんです。先輩も一緒に信じませんか、大切な人を待つ自分を。先輩の五年間を。僕は、応援しています。」
 慰めたり励ましたり、僕は得意じゃないけれど。弟の様に可愛がってくれる、僕と同じ様な恋愛をしている先輩に、幸せになってほしいと思った。
「そうね……有難う。私も取手君みたいに、自分を信じてみるわ。」
 先輩は薄く涙を滲ませて、綺麗に微笑んだ。

 寮に帰宅した僕は、ピアノの前で携帯を握りしめた。何だか無性に、はっちゃんに会いたくて。こんな時は何かで気を紛らわせるか、ピアノを弾く。それでもはっちゃんの事ばかり考えてしまうけれど、何もしないでいると、想いに壊れてしまいそうだから。僕は鍵盤に指を走らせた。
 はっちゃんは、今何をしてるだろう。クエストや秘宝探しは順調かな。怪我なんてしていないといいのだけれど。はっちゃんの体温、肌の滑らかさ、柔らかな唇。拗ねたり笑ったり、僕を気遣ってくれたり。僕だけにくれる柔らかな笑顔に気付いた時は、本当に嬉しかった。
 今直ぐ抱きしめたいよ、はっちゃん。僕は何時も君に飢えていて、時々心配になる。君の事ばかり考えている僕は、頭がおかしいのかな。それとも、考えすぎておかしくなってしまったのかな。分からないんだ……こんな風に誰かを想った事なんて、無かったから……。こんな僕を、君は怖がったりしないだろうか。
 ピアノを弾いていると、不意に携帯が鳴った。指定着信音に、即座に指が止まる。慌てながら、震える手で携帯を取った。
「……はっちゃん?」
 ああ、声まで震えてる。
「かっちゃん! 元気だった?」
 はっちゃんの声に何処か安心して、同時に鼻の奥が痛くなった。
「うん……はっちゃんは?」
「勿論。元気に頑張った甲斐あって、さっき任務完了。疲れてもさ、秘宝GETした瞬間って、やっぱり凄く気持ちいいんだよね。」
 満足気な声に、何だか僕まで嬉しくなる。
「GETおめでとう。」
「ありがと。少しだけ帰れるから、チケット取れたらまた連絡するね。」
 久し振りに逢える。嬉しくて、言葉に力がこもった。
「本当かい? 待ってるよ。……早く逢いたい。」
「うん、俺もだよ。かっちゃん大好き。でね? 先に暴露しておくと、左肩をちょっとだけ怪我しちゃったんだ。でも普通に動かしても問題無いから、あんまり心配しないでね。」
 はっちゃんは時々、とても自然に「大好き」と言う。こんな時の「好き」にはだいぶ慌てなくなってきたけれど、何度聞いても嬉しい。でもその後の言葉に、僕は少し眉根を寄せた。服で隠れる場所でも、会えば分かってしまうからか、はっちゃんはこんな時だけ怪我を教えてくれる。
「本当に大丈夫なのかい……?」
「見た目よりも全然平気。逢った時の強烈ハグで証明してあげるから、期待してて。だから、気遣って何も無しなんて、無しだよ。」
「……、あっ………。」
 笑いを含んだ悪戯っぽい声が伝えた意味に気付いて、僕は思わず赤くなった。
 何時だったか、はっちゃんの服に隠された怪我を見付けて行為をやめようとした事があった。それは……僕だって辛いけれど。ただでさえはっちゃんにばかり負担が大きい事をして、怪我が悪化するかもしれない事の方が、辛いから。そうしたら、やめたら嫌だと可愛く駄々をこねられて、散々煽られて、結局普段より………。
 思い出してしまった僕はどう答えていいか分からなくて、赤面しながら俯いた。はっちゃんは海の向こうだけど、恥ずかしくて何だか顔をあげられない。今の僕の状態なんて、きっと簡単に見抜かれているだろうな……。
「かーっちゃん。だから、待ってるね。」
 はっちゃんの言葉に、僕はハッとした。僕は何時も自分が待ってると思っていた。寂しさや会いたい気持ちは同じでも、だからどうと言う訳でもなく、待つ側と待たせる側に分かれている気がしていた。確かに、会えない理由がはっちゃんの仕事だという見方をすればそうなのだけど。でも違うんだね。
 はっちゃんだって待っているんだ、僕と抱きしめあえる日を。もしかしたら、僕がプロになって今より自由に時間調整が出来るようになるのを。……そして多分、何時か僕がもう少し積極的になれるのを。
「うん……何時も想っている分、僕も強烈ハグで確認するよ。」
 頑張ってそんな返事をしてみたら、はっちゃんが約束!と言って嬉しそうに笑った。
「ねえ、かっちゃん。俺の天職はトレジャーハンターだと思うんだ。」
「僕もそう思うよ。」
「もしかしたら、体は遺跡に捧げる事になるかもしれない。」
「………うん。」
「でも心は、一生かっちゃんに捧げるよ。どんなに遺跡に夢中になっても、本当に抱きしめたいのは、かっちゃんだけだからね。だからいっぱい抱きしめ返して。」
 ああ、どうしてはっちゃんは何時も、こんなにも僕を照らしてくれるんだろう。
「勿論だよ。僕も早く一人前になって、はっちゃんが世界の何処に居ても抱きしめに行けるようになるから、待っていて。」
「かっちゃん……うん、待ってるよ!」
 受話器越しに照れ笑いする君を、心から愛しいと思う。君への想いがある限り、僕は強くなれる。君と並ぶ為に僕は世界を目指して、今を奏でていくよ。

 それから数ヶ月後の初春、卒業式の日。花束を持った男の人と抱きしめあう先輩がいた。悲しそうな影も儚さもないその笑顔は、誰よりも綺麗だった。










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