鏡花水月
 朝から曇ってはいたが、朝希は傘を持たずに外出していた。夕刻近くに用事が済み、帰り始めた頃に雨が降り出した。今走っても、帰り着く頃にはずぶ濡れだろう。何時やむかは分からないが、取り敢えず民家の軒先を借りて雨宿りをする事にした。どんよりとした空は次第に色を濃くし、辺りも薄暗くなってきている。

「暗くなる前には帰るって、言ってきたんだが・・・・・・。」

 一緒に暮らし始めて間もない者に告げた事を思い出し、困ったように呟く。長い銀髪をさらりと後ろへ流し、朝希は小さく溜息をついた。


 色素の薄い容姿の者が占めるこの大陸は、光の加護を受けていない者を忌み嫌う傾向がある。それに該当する容姿は黒だ。髪や瞳が黒に近ければ近い程、良い目をされない。そういった外見の者は、多少なり不思議な力を持っている事が多いからというのもある。だが実際は、髪や瞳の色が濃いと言うだけで、黒いわけではない。特別な力など殆ど無く、人に害を与えられる類も少ない。多くいる者と違うだけで嫌な色だと言われ、力に怯えられて不吉だと畏怖される。

 だが、朝希にそういった偏見は無かった。だからこそ、漆黒という言葉の似合う同居人、貴夜がいる。貴夜の黒髪はとても艶やかで美しい。その瞳も、月の無い星明りだけの夜空のように綺麗で、初めて見た時から気に入っていた。だから眺めていると、貴夜は居心地が悪そうに自分を見てくる。綺麗な黒だというと、困ったようにそっぽを向くが、気に障っているわけではないらしい。

 初めて会った頃は、もっと冷たい目をしていた。表情も崩れる事無く、今以上に無言だった。長い間人を避けて暮らしていたのは、貴夜が異端とされる容姿だったからだけではない。彼は本当に、人間ではなかった。人の形をしているが、中身は常世の者ではない。常人には見えぬ存在を、幼い頃から当然のように見てきた朝希には直ぐに分かった。強い力を秘めた、美しい闇。その瞳は、孤独に満ちていた。

 話し掛けても返事は無い。見返してくる瞳は何時も冷たく、顔全体の表情すら無い。何処かなげやりで、好意的な素振りも無い。だが、人の心が分からぬ程冷たいわけでも、無感情というわけでもない。そして何より、自分に対してだけは、強い警戒心を少し解いて接してくれた。

 半ば強引に同居を決めたのは、単純に放っておけなかったからだ。どんな過去があったのか多くは知らないが、何者にも心を開くまいとする程の傷を負ったのだろう。だが、ぬくもりを拒絶し、独りで生きて死んでいくのは寂しすぎる。周囲と違う外見、人ならざる能力。それが何だと言うのだろう? たかがそれだけの事で、忌み嫌われていい筈が無い。そう考える人間が居る事を知って欲しかった。そして、心許せる誰かを見付けて欲しかった。


 以前、傘をさしても無意味な程、今日よりも酷い雨に降られた事があった。どうせ同じだからと傘を差さずに濡れて帰ったのだが、ろくに拭かずに放っておいた所為か、夜に熱を出してしまった。

 貴夜は僅かに眉をよせて一言、「軟弱」と言い放ったが、一晩中冷たい布を当ててくれた。お陰で熱は翌日には下がり、礼を言うと、目を泳がせてうろたえていた。心なしか頬を薄らと染めていたのは見間違えだろうか。確かめたかったのだが、濡れた布を顔に押し付けられて出来なかった。

「濡れて帰ってくるな」。そう言って彼はさっさと部屋から出て行ってしまった。


 表情の僅かな動きから、少しは貴夜の気持ちが分かるようになってきたと思う。出会った頃の冷めた視線や態度も消えた。だが確信的な事は、貴夜は何も言わない。濡れて帰るなという言葉も、もう看病したくないからなのか、それとも心配する気持ちが多少なりあったからなのか。貴夜はどちらとも思える返事が多い。本音はどうなのか知りたいが、答えてくれそうに無い。それがまた朝希を惹きつける。

 往来の砂煙を沈め、窪みに集まっていく雨を眺めながら、朝希は溜息をついた。せめて、行動が押し付けに、親切のつもりが迷惑に、言葉が耳障りに、なっていなければ良いのだが。

 時々、辛うじて持っている自負が消えそうになる。少しは心を許してくれているのかもしれないと思うのは、思い上がりに過ぎないのだろうか・・・・・・。変わってきたのは貴夜だけではない。自分の感情にも変化が起こっている事に、薄々感付いていた。他の誰かでは無い。貴夜が心を許す相手は自分であって欲しい。不器用で表現の下手な貴夜をもっと知りたい。時折、触れた時に覗かせる素直な反応を楽しみたい。何より、その笑顔を一番に見てみたい。

 ぼんやりと見つめていた景色に見付けた姿に、朝希の思考回路が止まる。傘で頭部を隠すようにしているが、羽織の模様に見覚えがある。朝希に備わった感覚が、その者の異質な力を感知していた。だがそれが無くとも、その人物が貴夜だという事に気付いただろう。理由は自分でも良く分からなかったが、貴夜なら直ぐに見付ける自信があった。

 目の前で止まり、傘を後ろに傾けて、漆黒の瞳が朝希を見つめた。手に持っていたもう一本の傘を無言で差し出してくる。

「・・・・・・わざわざ持って来てくれたのか?」

 傘を受け取りながら、信じられない思いで見つめる朝希に、貴夜は無表情のまま頷いた。

「・・・・・・目立つから、暗くなる前の外出は嫌いだろう? 有難う、貴夜。」

「・・・・・・いい、から。」

「え?」

「・・・・・・その・・・・・・朝希が、熱を出すよりは、いいから・・・・・・。」

 俯いて呟かれたそれは、珍しく率直に表された想い。

「・・・・・・そうか。有難な。それと、言ってくれて。」

 一瞬。ほんの一瞬、貴夜は顔を上げ、照れたような表情で口元を僅かに綻ばせた。だが直ぐに踵を返し、来た時と同じ姿勢で歩き出す。朝希は嬉しそうな笑みを浮かべてその後を追い、隣に並んだ。

 滅多に見れない貴夜の微笑を心に焼き付け、その微笑を何時か必ず笑顔にさせてみせると、密かに誓いながら・・・・・・。










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