秋水
鏡花水月
 時折吹く風が静かに草木をすり抜けていく朝。朝食を済ませた貴夜は一人、裏庭の手入れをしていた。軟らかな光が差し込む窓辺では、寝そべる白猫が日向ぼっこを楽しんでいる。太っているわけではないが、やや大きい猫だ。艶やかな毛並が煌き、無防備に手足を伸ばすその尾は二本ある。長く生きて妖怪――所謂猫又――になった白猫の洸司は人型にもなれるが、慣れ親しんだ猫型の方が楽で良いらしい。長い尾をふさりと揺らし、庭整備に励む貴夜を眺めていた。
 夏に一度家政婦が抜いたとはいえ、それでも自由に伸びた雑草を抜くだけでも、それなりに手間が掛かる。道具で土を掬い根ごと掘り起こし、土を払って脇に退ける。昼過ぎまで掛かると思われる単調作業だが、貴夜にそれを嫌がる様子は無い。無表情のその横顔は、何処となく楽しそうにさえ見えた。
『庭仕事、好きか?』
 思わず尋ねた洸司に、貴夜は手を止めないまま、直接頭に響く声に答えた。
「嫌いではない。・・・・・・草木が好きだからかもな。」
 洸司は寝そべったまま気持ち良さげに伸びをすると立ち上がった。
『でも、一人は大変だろ? 俺もやるよ。』
 貴夜が顔を向けると、人型になった洸司が最後に耳と尻尾を消した所だった。艶のある白い髪は、光の加減で時々虹色の光沢を見せる。唯の白ではない不思議な髪は洸司を老けて見せる事は無いが、年齢を不詳にさせた。濃い水色の瞳は透明感があり、吸い込まれてしまいそうな印象を与える。
「良いのか?」
「暇だしな。」
「・・・・・・助かる。」
 手付きは少々粗いが、道具を持って同じ様に雑草を抜き始めた。
「アレ、わざわざ植えたのか?」
 洸司は、先日朝希が植えた添え木を指差した。その辺りだけ、雑草が抜かれている。
「ああ、朝希が。貰ってきたとかで。抜くなよ?」
「了解。・・・・・・ああ、だから手入れしてんのか。」
 洸司の何気無い言葉に、貴夜の肩が少し硬くなった。
「いや・・・・・・ある程度は、此処に薬草があると便利だと思ってな。」
 朝希と違って、洸司は貴夜の無表情は殆ど読み取れない。だが、生き物が無意識に発している感情には敏感だった。
「照れんなって。いい事じゃん、仲間の為に何かすんのって。」
 貴夜は手を止めて洸司を見、目が合うと少し伏せたが、しっかりと頷いた。戸惑いつつも嬉しそうな様子を感じ、洸司も楽しげに笑い返し、揃って作業を再開する。
 人と猫、どちらの姿でいても、真っ白な洸司が生活に困る事は無く、本来猫である故か一つのものに固執しない。だが洸司はこの家に居座り、縄張り意識が強いながらも貴夜を受け入れた。歴然とした力量差の所為もあるが、だからと言って出て行かないのは、貴夜が追い出す性格ではなかったのもあるが、此処には彼のお気に入りが多々あるからである。
 洸司が初めて貴夜に会ったのはこの家の表庭、貴夜が初めて朝希の招きに応じた時だった。朝希から話には聞いていたが、生まれて初めて見る異質な程の漆黒、そしてその中身には驚かされた。自ら人を傷付けない云々と言う朝希の言葉は、如何にも人間らしい感覚だ。洸司が見たのはそこではない。貴夜は獰猛な獣のような本能を制御し、妖力を抑えている。だがそれは、恐らくは何かに封じられての事だと直感した。
 確かに貴夜の意志も深く関わっているが、それだけで人を傷付けずにいられる程、生温い環境にはいなかった筈だ。貴夜が生まれる前に父は姿を消し、母は普通の人間であったと言う。では、封じたのは誰なのか。
 多くの感情を知らない幼子の様なところは弟のようであり、人間の負の部分を否応無く叩きつけられて尚歪まずにいるその価値観は兄の様だ。だから、一緒に居ると楽しい。
 人間ではないからか、貴夜が洸司に馴染んだのは早かった。朝希への懐き方とは少し違うが、仲間意識を持たれている事に変わりは無い。そして洸司はそれで充分だった。

 雑草を抜く作業は昼前に終わり、先日貴夜が山から持ち帰った薬草を、貴夜の指示通りの場所に植えた。昼過ぎには全てを終え、植え替えたばかりの草に水をやり、ついでに手を洗って、作業は終了した。曲げ続けて疲れた腰に濡れた手を当てながら満足そうにほんの僅か口角を上げた貴夜の顔に、 洸司も腰を伸ばしながら笑った。
「遅い昼飯といくか。」
「ああ。・・・・・・洸司。」
 部屋に上がりかけたところを呼び止められ、まだ何かやり残していたかと洸司が振り返ると、貴夜は少しだけ嬉しそうな、微笑とも呼べる顔で言った。
「有難う。」
 目に見える以上の感情は既に伝わっていたが、普段表情に変化の無い貴夜のそれを見られて、洸司は満面の笑みで喉を鳴らした。一匹で生まれた筈は無いが、別々に貰われて行った兄弟の事など知る術も無い。だがもし一緒に育ち、運良く揃って妖になっていたら、こんな仲だったのだろうかとふと思った。
「・・・・・・おお。また何時でも手伝うぜ。」
 ぽん、と貴夜の肩に手をのせ、部屋に上がる。通いの家政婦はもう帰っているだろう。貴夜が朝から裏庭に居る予定だった今日は、早々に帰るよう朝希に言われている筈だ。貴夜は人間との接触を嫌う。家政婦と会わないのは、自分の容姿から朝希に迷惑が掛かる事を気にしているからだ。
「昨日緋理に会ったよ。飯食いに行ったトコの女が、最近良く眠れないからって、俺を抱えて行った先が緋理の所で。相変わらず元気そうだったぜ。」
「そうか。良かった。」
 言葉は平坦だが、表情は柔らかい。洸司には母と言うものは分からないが、貴夜が緋理を母親同然に大事にしている事は知っている。人間の姿で貴夜に同行して何度か顔を合わせているし、猫の姿で会いに行き、ついでに彼女の娘の膝で丸くなる事もある。白猫と洸司が同じ存在である事は、既に緋理には話していた。
「ニ、三日のうちに、薬を取りにくるらしい。なんか最近、吐き気止めが良く売れるんだって言ってたぜ。」
「吐き気止め・・・・・・?」
 毎年、この時期に売れ始めるのは風邪薬や解熱剤である。茸に当たる者もいて胃腸薬や解毒薬の需要も少し伸びる。だが何故、吐き気止めなのか。いぶかしげな貴夜に、同じ疑問を持っていた洸司は少し首を捻りながら答えた。
「そういやこの間花街の女が、都で薬の悪用が流行ってるらしいとか言ってたな。それと関わりがあるのかもしれないぜ。今夜詳しく聞いてみるよ。」
 午後は吐き気止めの薬を作ろうと考えながら、貴夜は黙って頷いた。
 貴夜には分からない世界だが、派手に遊ばないだけで洸司は割と花街が好きらしい。朝希同様、 花街の女性にも洸司は紳士的なようで、花街通いを悪く思った事は無かった。
「・・・・・・花街とは、そんなに良い所なのか?」
「まぁ、男にとってはな。口説く手間も後腐れも無い。どんな抱き方しようが責められる事も無い。甘い事言われて夢だけ見てられる。諸々のツケを背負わされたりする女は、それを覚悟で自由の為に戦ってるようなもんだ。」
 快楽と女の涙に濡れた街。汚い事を綺麗に覆い隠した其処の受け止め方は様々だが、出来るなら貴夜には自分の目で見て欲しいと洸司は思っていた。人の愚かなまでの弱さに生活を脅かされ続けてきた、色欲とは無縁の貴夜に、あの街はどう映るだろう。
「・・・・・・つまり洸司は、強い女が好きなんだな。」
 真面目に頷く貴夜に、洸司は笑いを零して答えた。
「まぁどっちかって言うとな。虚勢張ってでも強く在ろうとする方が可愛く見えるから。そう言う貴夜は、好みとか理想とかあるのか?」
「俺・・・・・・?」
 何気無く返された質問に浮かんだのは、母と緋理と、その娘。女と言ったらその三人としかまともに関わった事が無い。そもそも貴夜は人との交流が少なすぎる。見るのは何時も負の感情で、それ以外の部分を目にする事など殆ど無かったのだ。誰かとの甘い時間など、ましてその相手に関する好みなど、考える筈が無かった。
「俺は・・・・・・俺を受け入れてくれれば、それでいい。朝希や洸司や、緋理の様な人がいい。」
 深く考えつつ貴夜が出した答えに、洸司は切なさと喜びを同時に感じた。こんな答えを返す貴夜は不憫だと思う。妖という共通点を持ちながら、自分と貴夜はあまりに違う。けれど名前が出た事は素直に嬉しい。可愛い盛りの娘に、将来父のような男と結婚したいと言われる父親の心境を理解した気がした。
「そっか。いるさ、そんな女も。でもそんな事関係なく、俺達ずっと一緒にいるような気がするぜ。」
 無邪気に笑う洸司に、貴夜もまた、嬉しそうに口元を僅かに綻ばせた。兄弟の様な友人の様な洸司。一人暮らしをしていた頃は考えもしなかった時間だった。朝希がくれた居場所は、こんなにも貴夜に優しい。苗が無事に冬を越し、そして花を咲かせる事が出来たら、朝希の妹と四人でそれを眺めるかもしれない。あたたかな今をくれた朝希は、そうしたらきっと喜んでくれるだろう。そんな時間がずっと続く事を心内で願い、貴夜は苗を守る決意を新たにするのだった。





 夜、帰宅した朝希と夕食を済ませた貴夜は、並んで杯を空けながら月を眺めていた。度数の高い透明な酒は星の瞬きを乗せながら程好い甘さで冷たく入り込み、体に熱く散っていく。光のベールを薄く伸ばす月は、不完全故の美しさで闇を魅了していた。虫の音に包まれた沈黙は居心地が良く、 傍らに居る存在への満足を表している。
「朝希。」
 静かな声に、朝希は隣の貴夜を振り返った。ほろ酔いに少し潤んだ黒い瞳と目が合う。
「朝希にも、女の好みはあるのか?」
 沈黙を破った突然の質問に、朝希は何時もと変わらず穏やかな瞳で頷いた。
「まぁ、一応な。」
「・・・・・・通いたい女、は?」
 小さな声で問われ、朝希は不思議そうに貴夜を見つめた。今夜、洸司が花街に行っている事と何か関係があるのだろうか。
「女に溺れた事が無いからな。本気で、と言う意味なら、一度も無い。それがどうかしたか?」
「いや、昼間洸司と、好みの話をした。だから何となく。」
 本当はそれだけではなかった。裏庭の苗の世話を申し出た夜にもよぎった思い。もし、朝希に特定の女性が出来たら。もし、この家に住まわせたいと言ったら。その時、自分が邪魔になってはならないという事。あの時は出て行きたくないと思った。勿論それは今も変わらない。だが、朝希は自分に居場所をくれたのだ。例え何時かそれが現在進行形ではなくなっても、大切なその事実以上を望むのは、我儘な気がした。
 朝希に通う女性が居ないなら、少なくとも今は、そんな心配は必要無い。貴夜は月に目を移し、安堵に息をついた。
「貴夜は何て答えたんだ?」
 穏やかな、それでいて何処か真剣な声音。
「そういう事は正直よく分からない。だから、俺を受け入れてくれるなら・・・・・・。朝希や洸司や緋理の様な人がいい、と。」
 ある意味誰でも良いとも言えるその答えは、今思えば、少し違うような気がしなくもなかった。だがやはり、よく分からない。優しく頭を撫でられて朝希の顔を見ると、少し複雑そうな顔で笑みを浮かべていた。
「確かに、緋理さんのような人なら俺も安心だ。」
「・・・・・・だが、俺は・・・・・・。」
 朝希の顔を見て不意に続いた言葉に、貴夜は自分で何が言いたいのかと戸惑いに顔を曇らせた。普段であれば、明確に言葉に出来ていない事は初めから言わない。だが酒の所為だろうか、本能が告げるように浮かんだ何かの、けれどたった一つの思いを、言葉に出来無い侭言い掛けた。
 艶やかな黒髪から顔の横に滑り落ちる、優しい掌。言葉を探す貴夜の、酔いにほんのり色付いた 頬を撫でる親指。一度も貴夜を傷付けた事の無い紫苑の瞳と心地良い声。僅かに首を傾げた肩に流れる、月明りを紡いだ様に煌く銀髪。穏やかに言葉を待つ笑み。
「朝希の様な人、が居たとしても・・・・・・それは朝希じゃない。だから・・・・・・。」
 要らない、とは言い過ぎだろうか。けれど。
「洸司や緋理の様な人は、居てもいい。だが、朝希の様な人は・・・・・・。」
 居ても意味が無い、と言うのもやはり言い過ぎかもしれない。だがそれなら、どう言えばこの思いは言葉になるのだろう。
 眉間に浅く皺を作り、朝希を見る。視線が絡み、どう言おうかと焦りが生まれた。そんな貴夜を包むように、朝希は微笑む。そうして表情の優しさその侭に、名前を呼んだ。
「貴夜。」
 体の向きを変え、朝希はそっと貴夜を胸に引き寄せた。
「貴夜だから良いんだよ。俺が共に在りたいと思うのは貴夜だから、似ているだけの人じゃ駄目なんだ。」
 言葉に出来無い焦りやもどかしさ、この話題に至るまでの経緯に含まれた憂いさえも、貴夜から消えていく。唯幸せだけが、心を満たした。
「朝希・・・・・・。」
 その幸せが零れ落ちた様に名を呼んで、貴夜は朝希の背に腕を回した。何時に無く強く抱き締めるのは、同意の意味。朝希が良いのだ。似た人が居ても、結局一番と言えるのは朝希しかいない。それは好みのタイプ、というのとは少し違う答えかもしれないが、朝希に似た人を選ぶ余地など無い事は確かだった。“誰かに似ている人”は良くても、“朝希に似ている人”は駄目なのだ。朝希ではないから。
 漸く言葉に出来たそれを素直に納得し、口元を緩ませながら貴夜は目を閉じた。抱き締め返してくる腕が何時もより少し強く、それがまた、何故か嬉しい。頭に触れる朝希の顔が笑んでいる事を感じ、貴夜はその項に額を摺り寄せた。
 優しい沈黙が再び舞い降りる。天上の煌きに包まれながら、夜は静かにその密度を深めていった。










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