願花
鏡花水月
 半月がぼやけた闇を生む室内で、朝希は開けた窓に寄り掛かりながら裏庭を眺めていた。

 囲まれた塀に区切られた星空の三分の一は、一本の木で覆われている。地に落ちるその濃い影が当たらない場所には、細い苗木が植えられていた。上手く育てば、春には小さな花を咲かせるだろう。

 門から玄関までの間にある表庭と違い、あまり手入れをされていない裏庭は、大きく育った雑草こそ通いの使用人が抜くものの、割と野放しにされていた。朝希が一人で住んでいた時は気に掛ける事も無かった庭だ。居間の隣にあり、裏庭に面したこの部屋も特に用は無く、室内に入る事は少なかった。だが最近は、食後のひと時は此処で二人で過ごすようになっていた。夏の夜、何度か一緒に眠ったのも此処だ。


 音もなく近付く気配に、朝希は室内の闇に視線を移した。居間がぼんやりと明るくなり、青白い火と共に貴夜が姿を現す。火は闇に溶けるように其処で消え、貴夜だけが開け放されていた室内に入ってくる。

 無言で朝希の隣に座った貴夜が、午後になってから増えた苗木を見つめて口を開いた。

「あれは、大事な木なのだろう?」

 外出から帰宅した朝希は、何処からか入手したらしいそれを、自らの手で植えていた。
「ああ。あれの花が好きな子がいるんだ。珍しい種類で本でしか見た事がないから、咲いたら見せてやりたくてね。」

 朝希の瞳が優しくなる。脳裏に浮かぶのは、病弱な少女の笑顔。もう何ヶ月も会っていない。

「・・・・・・そうか。」

 表情は変わらないまま、貴夜の声が微妙に低くなる。

 性別問わず、朝希に人気がある事は知っていた。同じ男として惹かれる部分も多々持っている。多くの者に好かれている朝希が、その中の誰かを好いても不思議は無かった。

「あれが根付いて冬を越えるのは少し難しい。大事なら、よく気を付けてやることだ。」

「・・・・・・貴夜?」

 何かが何時もと違う気がして、朝希は貴夜の瞳を見つめた。闇を映す漆黒の瞳、あからさまな変化が無い表情、口調、どれも普段と変わらないように見える。だが朝希は、消えていた筈の素っ気無さを空気の隅に感じた。

「人を連れてくるのは嫌か?」

 静かな声に導かれるように、貴夜の心に浮上した想い。

 誰を連れてきても構わなかった。例えば友人であるなら。その日は何処かに身を隠していれば良い。

 だが、異性なら。今迄この家に人を連れて来た事は無く、余程の相手でなければ連れて来るつもりも無いと聞いている。朝希があの優しい笑顔で連れて来る者を、この家に朝希と住むかもしれない者を、出来るなら見たくない。

 それはまるで親を独占したがる子供のようだと、貴夜は慌ててそんな自分を否定した。

 人を連れて来られるのが嫌なわけでは無い。それによって此処に住めなくなるかもしれない事が嫌なのだ。より長く朝希と過ごせるこの家から。

 そう思い直す。その思いも、決して嘘ではなかった。それでも結果的には朝希の言う通りなのかもしれないが、やはり微妙に違う。上手く伝える自信は、貴夜には無かった。

「そんな事は無い。そもそも、此処は朝希の家だ。」

「・・・・・・それなら良いんだが・・・・・・。貴夜が此処にいるのは、俺がそうして欲しいと望んでるからだって事を忘れないでくれよ? 遠慮する事は無いんだ。」

 何時だったか、神社から一緒に帰って来た夜も、朝希はそう言った。共に住む事を、自分が望んでいるのだと。

 貴夜は頷いて返し、胸があたたかくなるのを感じながら視線を逸らした。何時かこの家を、朝希の傍を離れるかもしれない事など、今は考えずに。大切なのは、互いが望んで、今二人が此処に居るという事。貴夜は小さく息を吸い込んだ。

「朝希。俺も、あの木の世話を一緒にしても良いか?」

「いいのか? 助かるよ、貴夜は草木の事に詳しいからな。」

 普段は何かと朝希が誘うばかりだ。申し出を素直に喜ぶ朝希に、貴夜の唇も僅かに緩んだ。秋の夜風に、闇の中でも黒く艶めく貴夜の髪が揺れる。その髪に触れ、朝希は満足そうに微笑んだ。思えば隣に座る距離も近付き、今では手を伸ばすまでもなくその黒髪に届く。自然に肩が触れ合う事さえある。日々少しずつ、確実に、貴夜は心を開いてくれているのだ。

「有難う、貴夜。」

 御礼の真意など分からなくて良い。こうして近付いていける事が、ただ嬉しい。まだ話せない事は多いが、本当の意味で近付いていきたかった。

 朝希は黒髪に触れた手を、その下に隠された白く柔らかな頬に滑らせた。

「・・・・・・出来るだけの事はする。」

 御礼を言いたいのは自分の方だと思いながらも言えずに、貴夜は頬を撫でる指先に僅かに目を細めた。誰もが恐れる自分を大切にしてくれる朝希の役に立てるのなら、苗木の世話は大した事では無かった。


 離れた指先に肩の力を抜いて朝希を見ると、朝希は最初と同じ優しい瞳で苗木を見つめていた。

「俺には歳の離れた妹がいるんだ。胸を悪くしていて、遠出はした事が無い。だから妹は、殆どの自然や動物を、誰かの話や図鑑の中でしか知らない。時々実家から知らせが届くんだが、状態は相変わらずらしくてね。」

「そうだったのか・・・・・・。」

 思ってもいなかった事情に、自分は何を考えていたのかと、貴夜は情けなさに内心溜息を吐いた。自分の保護ではなく、朝希の事を考えられるようになりたかった。

「良くなってはいないが、悪くなってもいないから、取り敢えずは大丈夫なんだが。」

 朝希が時々こうして起きているのは、良くない知らせが届いて心配している時なのだろうか。貴夜は、朝希が起きていた幾つかの夜を思い出した。眠れない様子が気になり、何かを言いたくても、何かをしたくても、結局自分が気遣われてばかりいた。

 励ます言葉を上手く探せない。表情も声も、思うように気持ちが出ない事は自覚している。

 貴夜は、朝希の頭をそっと撫でた。朝希が自分にするのと同じ様に。そうすれば、少なくとも、行動の意味は分かって貰えるように思えた。

「・・・・・・冬越え、させよう。花を見て貰おう、朝希。絶対、花は咲く。それ以上の笑顔を、その子も見せてくれる。」

「貴夜・・・・・・。」

 思わず感情のままに行動したが、驚く朝希に我に返る。直ぐに恥ずかしくなって手を下ろし、震えを隠すように握りしめた。俯き、このまま自室に戻ってしまおうかと思った時。

 ふわり、と鼻を掠めた朝希の香りと、同時に自分を包むぬくもり。

「まさか、頭を撫でられるとは思わなかったな。ま、貴夜になら構わないけど。」

 くすくすと笑う朝希に、やはり逃げようと貴夜は体を捩るが、いっそう強く抱きしめられた。

「俺もそう信じるよ、貴夜。有難う・・・・・・。その時は貴夜も一緒だ。」

 耳元で聞こえた、朝希の言葉と明るい声音。少しは伝わったようだと安心し、貴夜は大人しく肩の力を抜いた。

「・・・・・・俺は一緒にいない方が良いと思うが・・・・・・。」

「そんな事は無いさ。貴夜の優しさは伝わるよ。」

 ぽん、と貴夜の頭をひと撫ですると、朝希は片手で窓を閉めた。部屋に流れる秋の始めの風は、浴び続けるには肌寒い。

「朝希。この裏庭、使わせて貰っても良いか?」

「・・・・・・? ああ、構わないが。」

 見つめあえる距離に顔を離し、どうしたいのかと朝希が目で問う。

「薬草が此処にあると、便利だと思って。」

「そうだな。此処は好きに作り替えて良いけど・・・・・・俺にも手伝わせてくれよ?」

「ああ。・・・・・・二人の庭・・・・・・だからな。」

 ぎこちなさを残しながら、それでも確かな微笑を穏やかに浮かべた貴夜に、朝希も笑顔を返して頷いた。貴夜を抱きしめたまま立ち上がる。

「そろそろ寝ようか。」

 抱きしめていた腕を解き、貴夜の手を握った。部屋に着いてもこの手が離れなければ、今夜は一緒に眠ろうと思いながら。










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