羽根
鏡花水月
朝日が障子越しに室内を照らし始めた早朝。青から白へ色を変えていく光りの中で目を覚ました朝希は、寝惚けたまま腕の中のぬくもりを撫でた。再び眠りに落ちようかと、無意識に鼻先を擦り付けた指通りの良い髪が、自分の銀髪と同じ香りである事に気付く。艶のある黒髪を顔から払えば、対照的な白い肌をした線の細い面立ち。眠りに閉じた瞳は、濡れた闇色であることを朝希は知っている。ふっと息を吹き掛ければ、程好い長さの睫毛が揺れそうな程に近い。薄く開いた唇は、微かな寝息をたてている。
これが女なら、思わずくちづけで目覚めさせたくなるところだが。惜しい、と心の中で小さく呟き、朝希はその無防備な寝顔を見つめた。共に眠るのはこれが初めてではない。大分慣れて緊張が解けたのか、朝希の後に寝て先に目覚める事は無くなったようだ。眉をひそめた寝顔でもない。滅多に崩れないポーカーフェイスの内側は、何処か可愛らしささえ感じる程、本当は穏やかなものなのかもしれない。
暫くすれば使用人が来る。信用のおける者を通わせているが、貴夜に会わせた事は無かった。起こそうかと思案しつつも、朝希は貴夜の頭を隠す様に抱き締めた。己の方瞼に額が当たり、ほんの一瞬、貴夜の頬を上唇の先端が掠める。朝希はふと動きを止め、黒髪に埋めた指先で地肌を撫でた。困惑気味な顔をしている。
不意に、もう一度触れてみたくなったのだ。その頬に、唇で。
朝希の動きに軽く目が覚めたのか、貴夜の瞼が動いたのが分かった。
「ん・・・・・・。」
もぞもぞと体が動く。俯いてその顔を見ると、美しい黒の瞳がぼんやりと朝希を見つめた。近すぎてよく分かっていないようだ。貴夜の寝起きの表情は、寝ている時と同じく無防備で、かつ自然だ。眠た気な目を細めきょとんとする顔は、普段からは考えられない。可愛さに思わず満面の笑みを浮かべ、朝希は動いた。
「・・・・・・・・・?」
貴夜が不思議そうな、僅かに擽ったそうな表情をする。朝希は半ば無意識に、白い頬にくちづけていた。内心自分でも驚きはしたが、やめる気は起きなかった。柔らかな感触の正体に気付いた貴夜から不思議そうな表情は消えたものの、完全には覚醒していないのか、拒む事無くそれを受けている。寧ろどこか気持ち良さそうに瞳を細め、朝希の紫苑の瞳を捕らえた。
頬の下の辺りからその上へ、そして鼻を通って反対側へ、朝希はじれったい程何度もくちづけを落とし、ゆっくりと唇を渡らせる。そして見る者を溶かすような優しい瞳のまま、辿り着いた反対側の耳元で囁いた。
「おはよう、貴夜。」
「・・・・・・・・・!」
ピクリと顔を動かし、貴夜が目を大きく開けた。どうやら覚醒したようだ。朝希は肩肘を付いて顔を離すと、反対側の手で髪に触れたまま言葉を続けた。
「大分寝惚けてたようだけど、ちゃんと寝れたか?」
貴夜はぎくしゃくと頷いた。混乱しているのだ。
今のあれは、何だったのか? 寝惚けて何か夢でも見たのだろうか。夢心地になるような、微風を伴う優しい感触。とても間近に見えた朝希の顔。何よりその瞳に溺れてしまいそうだった。羽根のように触れてきた、あれは・・・・・・?
行き着いてはいけない事実に、行き着いてしまいそうだった。例えひとときのものとは言え、認め難い想いを持った事に気付いてしまいそうだった。
男同士でする筈の無い行為。そう、あれはリアルな夢。だから自分は望んだのだ、もっと触れていて欲しいと。失って久しい、現実ではもう得られない優しさに浸りたいと。
「また、こうして寝ような?」
何時もと変わらぬ様子で朝希が問う。そこに深い意味など無いかのように。
「・・・・・・ああ。」
すっかり目覚めて無表情になった貴夜が、素っ気無く答える。だが朝希はにこやかに笑った。流された事は少し寂しくはあったが、拒否されるよりは遥かに良い。それを恐れ、柄にも無く次の約束など持ち掛けてしまった。
「俺も熟睡出来たし、良い目覚めだったよ。貴夜のお陰かな。」
肩肘を突いて斜め上から見下ろしてくる瞳は、あの時程では無いが、やはり優しい。抜けない気恥ずかしさに顔を逸らし、表情が変わっていない事を知りつつも手で隠そうとして、気付いた。昨夜から互いの手を握り続けている事に。肘を付く朝希が頬杖を付かなかったのは、手を握っているからだった。体温の低い自分の手が、今は同じあたたかさになっている。
何時かこの手が、振り払われる事があるかも知れない。夢は覚めるものだ。だから今は、離したくない。名付けられる程の自覚は、そこにはまだ無かった。密やかに生まれた、ささやかな感情。それがどんなものであれ、今の二人の望みは同じだった。
「良い・・・・・・夢を、見た。」
再び朝希を見上げ、ぽつりと貴夜が呟いた。
「ん?」
促す様に朝希が首を傾げる。銀色の髪が一房、さらりと貴夜の顔の横に落ちた。
「・・・・・・紫苑の羽根が降る、優しい夢だ。」
「貴夜・・・・・・。」
「眠れない日は、言えば良い。夢を見たい日は、俺も言う。」
現実として受け入れる事は出来ないまでも、それは精一杯の歩み寄りと自己表現の言葉。それが分からない朝希ではない。
「ああ、そうだな。」
朝希は貴夜の頭を隠すようにそのまま抱き締めた。
「・・・・・・もう、人が来る。」
誰にも貴夜の寝顔を見せたくなかった名残だ、とは言わないでおこう。・・・・・・少なくとも、今は。身じろぐ貴夜の、耳元を流れる艶やかな髪にくちづけ、囁いた。
「少しだけ、香りを。」
鎖骨に触れる柔らかな頬と吐息。着物を掴む手。垣間見た素の表情。目が離せなくなり始めたそれらが、貴夜の体から感じる微かな香りと共に朝希の心に染みていった。
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