星月夜
鏡花水月
 闇に包まれたばかりの空を、鳥居に寄り掛かって見つめる黒づくめの青年。肩上で雑に切られた黒い髪、端正な顔に、漆黒の瞳。黒地に青い刺繍がさり気無く入った着物。衣服から覗く肌だけが、陶磁器のように白い。彼は無表情のまま、オレンジ色の三日月を見つめている。

 その鳥居に続く階段を昇って来る者が居た。前髪を中央で分けた背中までの銀髪、中性的な顔立ち。白地に、片側の腰から裾までの色鮮やかな花模様が入った着物を纏っている。一見、華やかな遊び人と言ったところか。高い背としっかりした体付きから、男であると分かる。彼は鳥居に辿り着き、黒髪の青年を見てにこやかに微笑んだ。

「やっぱり居たか。・・・・・・眺め良いよな、此処は。」

「・・・・・・ああ。」

 月から目を離す事無く答える彼の隣に並び、同じ年頃に見える銀髪の青年も月を見上げた。真っ赤な鳥居に寄り掛かる黒と白の姿は、闇の中でも対照的に見える。

 月の色は赤に近い程不吉とされる。闇が笑っているようにも見える下限の月は、特に忌み嫌われている。だがその月を、二人が嫌がっている様子は無い。

 眼下には都、そして山をはべらせて広がる空。黒髪の青年は、好んでよくこの場所に来る。そして飽きもせず空を見上げていた。暗くなっても戻らなければ、銀髪の青年が迎えに来る。それが当たり前になってきていた。

「貴夜。」

 無言で月を見上げる黒髪の青年に、銀髪の青年が声をかける。

「まだ此処に居たいか?」

 貴夜を見つめる銀髪の青年の瞳は優しい。貴夜がまだ居たいと言えば反対はしないだろう。貴夜は銀髪の青年に顔を向け、その瞳を見つめた。数秒の事だったが、あまり目を合わせてくる事が無い所為か、少しの緊張が漂う。そう感じたのは、銀髪の青年だけかもしれないが。

 貴夜はスッと瞳だけを逸らし、首を横に振った。

「いや・・・・・・いい。」

「・・・・・・そう。じゃ、帰ろうか。」

 鳥居から背を離した白い着物の袖を、貴夜が掴む。

「どうした、貴夜? ・・・・・・何でも言ってごらん。」

 何時もと変わらぬ穏やかな口調、穏やかな微笑み。貴夜は躊躇いがちに口を開き、珍しく名を呼んだ。

「朝希・・・・・・。」

「ん?」

「あの家は、本当に、俺が・・・居ても良い場所、なのか・・・・・・?」

 貴夜は自分から他人に接する事無く過してきた。言葉も少なく、表情も乏しい。が、朝希を無視する事は無い。時々だが目も合わせ、話し掛けてもくる。朝希には、そんな貴夜が月から堕ちた兎のように、途方に暮れているように見えていた。放っておけない、それだけの理由で半ば強引に同居を決めたが、後悔は無かった。

「貴夜が居る事は、家主の俺の望みだよ。だから何も遠慮する必要なんて無いんだ。」

「・・・・・・何故だ? 俺は、異端だ。」

「そう呼ばれてるものだね。・・・・・・で? 一緒に暮らして、何か問題があった?」

「無い。」

 横に首を振り、貴夜が即答する。反応の良さに密かに喜びながら、朝希は笑顔を絶やさず言った。

「お互い不満は無いなら、何も気にする必要は無いさ。俺は一人で居るより、貴夜と食事をしたりするのが好きだよ。狭くは無いし、束縛もしてないつもりだ。嫌じゃないなら、居て損は無いだろう?」

「・・・・・・そう、だが・・・・・・。」

「出て行くのは何時でも出来る。特に不満があるわけじゃないなら、居てくれないか?」

 何かを思案していた貴夜が、こくりと頷く。人から離れて暮らしてきた貴夜には一生縁が無いと思っていた言葉や行動を、朝希は何気無く言い、やってのける。その度に戸惑い困惑するが、不愉快に感じた事は無かった。

「よし。じゃ、帰ろうか。」

 数歩進んで立ち止まった朝希の横に、貴夜が並ぶ。それは今までより、ほんの僅か近い距離。気付いた心が明るくなるのを感じながら、朝希は歩調をあわせて家路を辿った。

 縁側の風鈴の音が、ちりん、と風に溶ける小さな音に、何故か貴夜は目を覚ました。横になったまま窓に目をやると、星の煌く夜空を、薄い紺色の雲が時折流れていくのが見える。まだ朝は遠いようだ。貴夜は上半身を起こし、乱れて顔にかかる髪を長い指でかき上げ、その人差し指を軽く天井に向けた。


 爪の先に火が宿り、手の平サイズの鬼火の様な青い火が宙に浮かぶ。部屋の隅で眠っていた白猫が眠たげに顔を持ち上げた。青い瞳をキラリと光らせ、直ぐに顔を伏せて眠りに戻る。二人が飼っているわけではない。何時の間にか居付いていたという尾を二本持つ白い猫又で、貴夜が来た時にはもう勝手気儘にしていた。

 青い炎を案内に貴夜は暗い廊下を進み、階段を下りて台所へ向かった。夜目は利く為必要は無いのだが、貴夜の外見は闇に紛れてしまう。廊下で遭遇した朝希に驚かれて以来、明かりを一つ共にするようにしていた。それはそれで幽霊のように薄ぼんやりとしてしまうのだが、闇に隠れて見えないよりはと朝希も賛成した。

 貴夜よりも先に台所で水を飲んでいた朝希は、風鈴の音に誘われるように、奥にある部屋に移動し、縁側の窓を開けていた。静かな風に運ばれた庭の草木の香りに目を閉じ、深呼吸をする。自然の香りは心が落ち着くものだ。

 ギシ、と床の軋む音がし、誰かが二階から降りてきた。この家は貴夜と二人暮しだ。使用人は夕方には帰る事になっている。貴夜を案内するように数歩先を漂っていた炎が、開け放されていたふすまの前で消える。炎が消えても夜の光で闇に浮かぶ朝希が、姿を現した貴夜に頬笑んだ。

「こんな時間に、どうした?」

 貴夜は黙って頭を振り、問い返すように朝希を見た。

「俺はちょっと、寝付けなくてね。」

 自重するように笑い、朝希は月明かりに照らされた庭を見た。風が草木を奏でる音と、虫のざわめきだけが聞こえる。眠れずにこうして一人で庭を眺める事は、初めてではない。風に乗る者や闇に紛れる者に出会い、話し相手をして貰う事もあった。朝希にとって異端は珍しいものではなく、恐れる者ばかりではない事もよく知っていた。

「人間は、寝た方が良い。」

 少しは心配してくれているのだろうか。そう思って貴夜を見ても、無表情の顔から心を窺う事は出来ない。

「そうだな。・・・・・・貴夜は寝ないのか?」

「俺は・・・・・・。」

もともと貴夜は夜行性だ。朝希に合わせて生活しているが、まだあまりよく眠れない。

「・・・・・・いや、そうだな。俺も寝る。」

 上半分が透明硝子になっている窓を閉めて朝希を見た。朝希は何処か遠い目で軽く俯いている。

「・・・・・・・・・。」

 どうかしたのか。気にはなるのだが、言えない。人間に深く踏み込む勇気が無い。朝希の様に、自分に安堵を与える笑みを浮かべる事も出来ない。何か言える事は無いのか。何かしてやれる事は無いのか。自分がどうしたいのか分からない。どうすれば良いのか分からない。そんな自分に、貴夜は戸惑いと歯痒さを感じてばかりだ。

「体の方は、ゆっくり合わせていけば良い。無理はするなよ?」

 何時もと同じに戻った朝希が、気遣うように貴夜の肩をポンと叩く。

 そうではない。気遣われるべきは、自分では無い。貴夜は眉を顰め、朝希を見つめた。どうすれば伝わるのだろう。

 気付くと、肩から離れていく朝希の指先を捕まえていた。そっと、指先が触れ合うだけの捉え方。朝希は驚いた顔で固まっていた。

「あ・・・・・・。」

 口は開くが、紡ぐ言葉が見付からない。

「・・・・・・すまない。」

 自分の行動に恥ずかしさを覚え、結局その侭離そうとする手を、今度は朝希がしっかりと捕まえた。振りほどけそうな程で、強くは無い。が、手を引きかければ、朝希の手も離れずに付いてくる。

「今夜は此処で、一緒に寝るか?」

 繋いだ手を軽く揺らし、嬉しげに朝希は尋ねた。離したくない、そう言う様に手を引き寄せられる。その手は温かく貴夜の手を包んでいた。まともに互いの肌に触れる事など、これが初めてだった。震えているのは、はたしてどちらの手だろうか。

 朝希は何時も無理強いはせず、選択権を与えてくる。どうしたいのかを言ってくる事は少ない。自分を思いやり過ぎて、本心を言えずにいるのか。無理をしているのではないか。それとも・・・・・・。

「・・・・・・そうしたいなら。」

 結局、貴夜が言えたのはその一言だけだった。そこから貴夜の感情を読み取る事は難しい。それでも、朝希は嬉しそうに手を繋いだまま、畳んであった洗濯物の一番上にあった着物を取り、貴夜と横になってそれを掛けた。繋いだ手から、額を押し付けられた肩から、伝わる貴夜の体温に、少しずつ朝希の心が和らいでいく。

「おやすみ、貴夜。」

 向き合って横になる朝希の前で、落ち着かない心臓を持て余しながら貴夜は体を縮こませる。畳に接する朝希の肩に額を摺り寄せ、ぎゅっと目を瞑った。

「お・・・・・・おやすみ。」

 小声で答えると、頭に朝希の顔が触れた。心地良い重さと共に頬擦りされ、反射的に強く手を握る貴夜の、その手の甲を、朝希の指先が優しく叩く。大丈夫だと、子供を寝かしつける様に。離れ難く感じ始めたぬくもりに、安らぎと不安を覚えながら、貴夜は何時しか朝希の寝息に自分のそれを重ねていった。










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