鏡花水月
 人の唇は何時も、己と異なるものを否定する。実情がどうであるかなど気にもせず、万人と同じである事に安心し、偏見と常識と事実をはき違える。人間という下世話でどうしようもなく愚かな生き物など皆殺してしまえばいいと、幾度思っただろう。

 だが一人の人間との出会いが、自分の中の何かを大きく変えた。

 背を向けあっていた体をゆっくりと反転させ、寝息に合わせ静かに動くその後ろ姿を見つめる。傍らで眠る男の長い銀髪は、窓から差し込む細く頼りない月明かりさえ反射させる。美しく流れ落ちるその光の束に触れ、少量を指に絡める動きでほんのり届いた香りに、僅かな息苦しさを感じた。自分の髪と同じ香りをしている筈なのに、何故かそれは優しい。髪の香りだけでなく、自分を見つめる瞳、自分に向けられる笑顔、自分に触れる時の指先も、抱きしめる腕の強さも、そして何より、その唇が紡ぐ言葉も。優しいその一つ一つに、何時も僅かな息苦しさを感じる。理由が分からず、どう反応すればいいのかと言葉を失う自分に、この男……朝希は何時も優しく笑って言うのだ。

『その感覚から逃げないで、ゆっくり慣れていけばいい。』

 僅かな息苦しさは重なるごとに胸に傷みを与え、忘れた筈の涙を予感させる。

 洸司と居て感じる事もあるが、朝希と居ると頻繁に、同居を始める前から今に至るまで絶える事無く続いていた。この気持ちの正体に、漸く気付いた気がする。 銀糸が流れる肩にそっと額をつけた。伝わるぬくもりが、時に孤独を消すものである事は知っている。孤独に慣れて求める必要もなくなっていたそれが、今になって当たり前の様に傍に在る。それがどんなに得難いものか、どれだけ切望していたか、一緒にいるうちに思い出してしまった。

「………、朝希……。」

 誰かの名前を呼ぶ事が、こんなにも満ち足りた事だと感じた事はなかった。

 そっと背に触れようと手を動かした時、不意に朝希が寝返りを打った。ビクリと体が震えた瞬間、包まれる様に抱きしめられる。起きたのかと思ったがそうではないらしく、規則正しい呼吸を体で感じた。それと同じように自分の心音が伝わってしまいそうで、体を固くしながら朝希を見る。暗い中でも造作が良い事が分かるその顔の、形の良い唇に目がいった。

 人の唇は何時も、己と異なるものを否定する。だが、この唇が自分を否定した事は一度も無い。
 そっと手を伸ばし、震える指先で、その唇の端に触れた。ふちを辿る様に、ゆっくり指を滑らせる。あたたかく、柔らかく、それは朝希と同じように優しい感触がして、また胸の奥が痛くなった。

 此処に居ていいのだと。傍に居ていいのだと。息が苦しくなる程、込み上げる喜び。胸が締め付けられて泣きたくなる程の、幸せ。

 何時かこの想いを返せるようにと、その指先で自分の唇に触れ、あたたかな腕の中で目を閉じた。










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