約束
鏡花水月
 空気を震わせ、空が吼えていた。刹那の光を連れた轟音は、時に激しい雨音さえ掻き消し、空を駆け抜ける。どろどろした重い雲を急き立てながら、風は大地に大粒の雨を投げ付けていた。

 鬼火のような炎だけが部屋を薄暗く灯している。夜を支配した嵐を見つめる貴夜の白い肌を、稲光が浮かび上がらせた。何時になく楽しげなその表情は、しかし穏やかなものではない。幾つもの蒼い火が音を立てて力強く燃え、決して弱くはない風が着物の裾を揺らす。閉じられている窓が異様にガタガタと鳴るのは、外と中から風が打つ所為だ。貴夜を取り巻く室内の風は、少しずつ強さを増していた。

 夕立程度であれば問題は無いのだ。台風も、只の雨風にすぎない。だが嵐は貴夜のバランスを危うくさせる。呼応するように、心の奥で何かが騒ぐのだ。

 もっと降って全てを流してしまえばいい。もっと鳴り響き、その音と威力で全てを壊してしまえばいい。もっと吹いて全てを消してしまえばいい。そうして全て無くなってしまえば良い。

 理由は分からない。普段から本気でそんな事を望んでいる訳ではない。だが、沸き起こるそれに身を委ねるのは心地良い。押さえようとすれば己の声が問うてくる。

 何故、抑える? 愛着どころか、未練も義理も、何も無い。何故、止める? 自分達と同じ無力以外を認めず、光だけを求める愚かな生き物。居なければ、どれだけ生き易いだろう。

 強くなるその衝動に力を操れなくなった時、嵐に乗じて自分が何をするか分からない。

 浮かぶのは、今は亡き母の顔。人間だった母は、魔物である父を愛し、貴夜を愛した。人も魔も価値は同じなのだと。母と自分を助けた産婆もまた人間だ。今も変わらぬ好意を持ってくれている彼女を、脅かす事はしたくない。

 本能に甘く響く感情を抑えようと、貴夜は窓から離れて部屋の隅に座った。触れもせずに戸が開き、何処かでパシッと音が鳴る。今夜のような日は、力が壁や柱を打ってしまう。貴夜のバランスが揺らいでいる所為だ。

 ふと、まだ一人で山に居た頃を思い出す。嵐の中、心配した朝希がずぶ濡れになりながら小屋に来た事があった。今より不安定な状態を察しても逃げる事無く、自分に平常心を取り戻させた朝希。今夜もそれを望むのは、我儘だろうか。

「貴夜?」

 突然名を呼ばれ、驚いて顔を上げる。何時の間にか、朝希が部屋の中にいた。

「一応ノックはしたんだが、聞こえていないようだったから・・・・・・。大丈夫か?」

 気遣う声は優しい。だが、貴夜は僅かに怯えた。物音にも、朝希の気配にも気付けなかった自分に。発する風は強くなり続け、小さな渦を巻き始めている。この侭では物を切ってしまう。普段は小さな火も、今夜は人の顔より大きく、音がしそうな程強く燃えている。そんな状態で近付いては、朝希を傷付けてしまいそうだった。

 近付かれて後ずさりかけた貴夜に、朝希が優しく声を掛ける。

「大丈夫だ、貴夜。前も、何も無かっただろう? 手を伸ばしてごらん。」

 それでも、貴夜は躊躇った。手を持ち上げるも、前へ伸ばす事が出来無い。

 朝希は無言で手を差し伸べた。必要としてくれるなら、自分からこの手を取って欲しい。そう思った。自信があるわけではない。だが、頼りにされているのか知りたかった。何かと世話を焼きたがる自分に、朝希は気付いていた。子供でもない相手に何故そうしたくなるのかは分からないが、それによって少しずつ貴夜を間近で見ていけるのは楽しい。だがそれを押し付けたくは無い。それは貴夜の為にも、貴夜に心を開いて欲しいと思う自分の為にもならない。

「朝、希・・・・・・。」

 呟くような小さな声。自分を勇気付ける為か、名を呼び唇を結ぶと、恐る恐る手が伸ばされる。そして、朝希のあたたかな掌に触れた。軽く乗せられた少し冷たい手が、強く握り返される。

「おいで。」

 貴夜を立たせ、朝希はその侭手を引いて歩き出した。込み上げる嬉しさに顔が緩むが、瞳は真剣だ。頼りにして貰えたのだ。どんな事をしてもその期待に応えたかった。

 貴夜は困ったような顔で、手を伸ばして出来る限り朝希から離れて歩く。風が傷付けるものに変わった時、朝希が怪我をしないように。自分から人を、朝希を求めるという事に慣れ始めている戸惑いが、それ迄の衝動とは違う僅かな乱れを心に起こしていた。



 幾度目かに入った朝希の部屋は、やはり朝希と同じ香りがした。実際には焚かれる香が朝希に移っているのだが、その香りは何故か貴夜に心地良く染み込む。その所為か、風が弱まり、大きさは変わらないが火の勢いはなくなった。


 コノ香リハ危険


 不意に、そう感じた。力を使いたがっている自分が、本能でそれを感じている。この香りを長く嗅いではいけない、と。今迄にも薄々そう感じた事はあったが、朝希に敵意が無い所為か、気にした事は無い。人間を傷付けまいとする自分には、寧ろ心地良かった。相反するこの感じは何なのか。

 以前、何の香りかと聞いたが曖昧に言葉を濁された。踏み込んではいけない気がして追求はしなかったが、この香りは危険だと言う白猫は、あまり朝希の部屋に近付かない。そう感じるだけで、きちんとした理由はよく分からないと首を捻っていた。

 貴夜は戸を閉めながら、眉を顰めて香炉を見つめる。朝希は手を繋いでいない手で、そんな貴夜の髪にそっと触れた。

「余計な事は考えなくていい、貴夜。自分の声に惑わされるな。」

 余計な事、なのだろうか? そう思ったが、気にしている場合ではないのは確かだ。貴夜は頷いて朝希を見つめた。

 貴夜が香りの正体を気にしている事は見て取れる。力を使って全てを破壊したがる心が、それに畏怖を感じる事。力を抑えようとする心が、その理由を知りたがる事。魔物であれば多少なりそう感じる事を、朝希は知っている。

 何故ならその香りは、魔物を服従させる為に作られたものだからだ。

 だが魔物がそれを知るという事は、つまり滅びるか封じられると言う事だ。人間にさえ秘密になっている。理解を得る為に、貴夜には頃合いを見て少しずつ話したかった。今の状態では言えない。

 貴夜の手を引き、さりげなく抱き寄せるように傍に座らせると、貴夜は大人しく足を伸ばして少しだけ肩にもたれた。これ以上力が暴走する事は無いと、確信にも似たものを感じたからだ。冷たい風は朝希には肌寒いかもしれないが、いずれは弱まるだろう。

「確か、力に対する貴夜の強い理性は、母君のお陰だったな。俺も会ってみたかったよ。一人の人間として、共感出来るものを持っているようだし。・・・・・・何より、貴夜を生んでくれた人だからな。」

 笑みをたたえてそう言う朝希に、貴夜は嬉しそうに瞳を細めた。

「朝希なら、母も喜んだだろう。下らない人間ばかりだったからな・・・・・・。」

「俺は、黒に見える濃い色をした瞳や髪の人達が受ける扱いをよく知っている。本当は無力だし、稀に力を持って生まれていても、最初から人を傷付けたりはしない。大抵は、傷付けられるからこそ牙を剥く。それに気付かずに、一般と違うだけで差別をするのは愚かだと俺も思う。・・・・・・だが、そんな人間だけじゃないだろう?」

 朝希は人間の弱さを知っている。魔物の性質も知っている。そのうえで平等に接する。だから貴夜は、朝希を話の出来る相手だと認めたのだ。

 貴夜の母。そして彼女と貴夜を助けたと言う産婆。この村で結婚して出来たと言うその家族。貴夜を理解し、愛している人間達。貴夜の理性が暴走を止めているのは、その大きな存在が在ってこそだった。

「ヒトは、父と母を引き裂いた。村を追われる度に、自分の外見とこの力が嫌いになった。ヒトは何時も、何もしていない俺達を恐れと憎しみの目でしか見ずに迫害する。殺してやりたいと何度も思った。本気でやろうと思えば、村一つ簡単に壊せる。生きて欲しいと思う人が居なくなれば、俺はそうするかもしれない。今だって・・・・・・こんな日は・・・・・・!」

 朝希がゆっくり優しく貴夜の背を撫でる。大丈夫だと言うように。

「・・・・・・あの日、朝希に生まれた時の話をしたのは、そんな自分に決着を付けたかったからだ。」

 貴夜がその話をしたのは、朝希の家に住む直前の事だ。朝希は只の気まぐれだと思っていた。それでも何か吹っ切れた様子が嬉しかったのだが、その頃から少なからず大事な役割を果たせていたのかと思うと、自然と笑みが浮かぶ。朝希は背を撫でていた手で髪をなぞり、俯いていた貴夜の頬に触れた。

「ヒトや自分への気持ちは、少しでも変わったか?」

 触れる朝希の指先に戸惑い、僅かに肩に力が入る。嫌悪ではなく、緊張。そして不安。だが敢えてされるがままでいた。その緊張感が、破壊を望む衝動から気を逸らすのに役に立っている。

「稀には俺を全力で守ってくれる人間も居る。ヒトと言うだけで傷付ける対象と見なせば、それは愚かな者達と変わらない。・・・・・・そう育てられた。そう在る事が、彼女達からの思いを無にしない事になると思っていた。それで良かったんだと・・・・・・朝希に話して安心出来た。それに…朝希と居る時の自分は、嫌いじゃない。…在りのまま居させてくれる朝希が・・・・・・。」

 言葉は続かなかった。だが、何時もとほぼ同じ大きさになった青白い炎に照らされる白い顔を間近で見れば、薄ら紅がさす頬が見られただろう。

「それでも・・・・・・もし何かあった時、正気を保つ自信は無い。だから、俺が力を押さえきれなくなったら逃げろ。出来るなら、殺しても・・・・・・良い。」

 朝希は切なげに目を閉じ、貴夜のうなじに額を寄せた。反射的に逃げそうになる貴夜の頭を、頬に当てていた手を耳近くに寄せて抑える。

「・・・・・・そんな事、出来るわけないだろう。どっちもしないよ。俺が必ず暴走を止める。ずっと、何度でも。・・・・・・最終的にどんな手段を使ったとしても、貴夜が貴夜でいられるように、俺は傍に居る。」

 さらりとした黒髪が触れる、きめ細かな白い肌。綺麗に露出した曲線に唇を寄せ、啄むように優しく上へ辿る。強く目を閉じて震える貴夜の体を抱きしめ、辿り着いた耳元で囁いた。

「俺も、俺と居る時の貴夜が好きだよ。貴夜と居る時の自分も。・・・・・・今の俺には、それが全てだ。だから殺しても良いなんて、絶対に言うな。」

 落ち着いた低い艶声が耳から入り込み、心地良い刺激となって貴夜の心に溶ける。それは、もう一つの本音を引き出した。

「生きて欲しいと思う・・・・・・朝希も。俺は、朝希が俺の力で傷付くのは嫌だ。」

 刺激の所為か、羞恥の所為か。朝希の胸元を掴み、小さく告げる貴夜の声が僅かに震えている。その表情を見たくて、朝希はもう片手で貴夜の顎に触れ、自分へと向けた。視線を泳がせる貴夜が浮かべる頬の朱、闇の中に光る濡れた黒い瞳。見つめていたくなる。そして見つめていて欲しくなる。

「心配する事は無いさ。俺はそんなに弱くない。何をされても逃げないから、貴夜も逃げないでくれないか?」

 例え力が暴走しても、傍に居る。そう伝えてくる朝希に、貴夜は戸惑いを隠せなかった。何故、朝希はそんな事を言うのだろう。何故、自分はこんなにも嬉しいのだろう。

「何故・・・・・・?」

 思わず漏れた呟きの答えは、間近にある朝希の唇から、優しい笑みと共に返された。

「貴夜との生活が気に入ってるからな。」

 一緒に居たい。傍に居たい。そう思う事に、理由など要らない。惹かれている、それだけで充分だった。だが、強くなるばかりの感情を当然の事のように伝えるのに、理由無しでは躊躇われた。

「貴夜も同じなら・・・・・・約束して欲しい。」

 あたたかな両手で顔を包まれ、何処か切なさを感じる真剣な眼差しに捕らえられる。その紫苑の瞳を見つめずにはいられない。

「・・・・・・約束する。」

 やっとの事でそう言った貴夜を、朝希はそっと抱きしめた。腕に馴染んだ感覚を、もう一度確認する為に。貴夜は視線が外れて気が抜けたように溜息を吐き、朝希の香りを吸い込む。

 気付けば何時の間にか、破壊や破滅を望む衝動は綺麗に消えていた。変わりにあるのは、時折朝希が心に与える熱に、未だ慣れない自分。慣れる日など無いように思えた。だが、このぬくもりが傍に在るのなら、それも悪くない。

 無言のまま二人は抱きしめあった。離れる事など無いようにと。










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